有限会社関原内装の経営継承

 代々受け継がれた大切な宝、それは「絆」~人との繋がり

第9弾は、有限会社関原内装です。

 

 昭和の初め、表具職人の関原光三郎氏(初代)は実家の坂戸市石井で表具師の看板を掲げる。ここから関原内装の物語は始まる。光三郎、とり夫妻には 一人娘の敏子さん。この時代、跡取りは婿養子の選択しかなかった。幸い東松山から表具師の家氏(2代目)を婿養子に迎え、表具師の看板は一家4人で支えることになる。家、敏子夫妻の跡取り息子博氏(3代目)も誕生し、関原表具師の看板は繋がった、かにみえた。

家氏の重荷は取れたはずと思いきや、3代目の博氏には全く継ぐ気はない。高校を卒業しても今でいう

フリーター、定職に就かずに自由な青春時代を謳歌していた。博氏が19歳、自動車製造関連の工場でアルバイトをしていたその工場の社長と雑談した時、博氏の跡取りとしての境遇を知ったその社長は、博氏に「こんなことをしている場合ではない、表具師の修行に励みなさい!」と厳しくも暖かい激励を受け、博氏はここで漸く目が覚める。その時から博氏の修行が始まる。時代は高度成長期真っただ中の昭和40年代、表具だけでなく内装仕上げの技も磨くことに。博氏27歳のとき地元の同級生知恵さんと結婚。と同時に「有限会社関原内装表具店」を立ち上げ名実ともに家業を引き継ぐ。3代目博、知恵夫妻の苦労の時代が始まる。知恵さんは「こんなはずではなかった」と今もあの時を振り返ると「恨み節」のセリフ...。

でも懐かしく、楽しそうに語っていたのが印象的でした。

 

関原内装の社史を語る

関原内装の社史を語る

 

 

関原内装の未来を語る

関原内装の未来を語る

 

昭和61年、当社との出会いは、徳栄産業のUR(旧団地サービス)の修繕工事を手掛けていた時、岩堀建設の当時の若手、都築(現建築本部長)を紹介され、マンションのクロスを任されたのが最初。その腕を見込まれて川越第一ホテル150室全室のクロスを指名される。「期日に間に合わせ、しかも高品質を要求。これには信用されるかどうか勝負の時と受け止めた」と、博氏は夜遅くまで夫婦でやり遂げたこの仕事を感慨深く語ってくれました。夫妻は二人の娘に恵まれたが、「この時分は朝から晩まで仕事の毎日、親らしいことは何一つ応えられなかった」と工事を支え、会社経営も支える知恵さん。経営は安定するも、博氏はこの会社は自分の代で終了すると夫婦して話し合ったその矢先、長女の文さんから突然結婚の報告、しかもお相手は婿に入って家業を継ぐ決意をしているとのこと。文さんは高校時代から「家業を継ぐのは自分だから婿に入る人としか結婚しない」と友達に宣言、その通り実行した行動力。お相手の計之(かずゆき)さんは、大学は出たものの進路を決めかねていた折、お付き合いしていた彼女からのオファー、結婚と進路を突き付けられて、二言なく快諾。結婚と同時に4代目を継ぐための思いもいかけない内装工の修行に。まさに関原家の見えないけどそこにある「強い絆」が脈打っています。

内外での内装工の修行を終え、会社経営の引継期間を終えた計之氏は、令和2年10月、晴れて4代目社長に就任。就任と同時に社名を「㈲関原内装表具店」から「㈲関原内装」に改名、計之、文夫妻の新たな「関原内装物語」が始まった。計之新社長は、「3代目が常に語っていた『人との繋がり』、お客様、支えてくれる職人一人ひとりとの絆をどこまでも大切に、大事にしていく、信頼を裏切らない仕事に徹していく、責任は重大だが、やり通していけば、今度は自分が次の世代に繋いでいける」と熱く語ってくれました。

新社長夫妻には頼もしい二人の息子さんがいて、きっと繋いでいくことでしょう。そして新社長は、以前この事業継承で紹介した牛村水道工業の社長や弊社の建築本部中堅リーダー和田とも同級生。まさに「人との繋がり」を大事にする関原内装のポリシーが証明されています。

 

新たな関原内装物語がは始まる。

新たな関原内装物語が始まる。

現場で作業する計之氏

 

 

施工現場(日医大)で岩堀スタッフと

 

 

 

 

 

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