第2回「東京オリンピック(1964年)」
栄司(二代目岩堀徳太郎)、入社
創業より9年の1954年(昭和29年)、一人で奮闘努力してきた初代徳太郎は、川越の建設業界にも漸く名前が浸透してきた矢先、請け負った南畑村立小学校(現富士見市)新築工事中、突然病に倒れた。戦後の何もない時代から、右も左もわからない、誰も頼る人がいない建設業に飛び込み、がむしゃらに働いた無理が体に負担を強いてきたのか、54歳いよいよこれからという時だった。 そこで、当時建設省(現国土交通省)に勤めていた長男栄司(後の二代目徳太郎)は、病気療養の初代を支えるため、建設技官の道を断念することになった。 27歳の春だった。 1955年(昭和30年)4月1日栄司入社。 部長となった栄司を入れても6名の会社だが、この年から大きくギアチェンジ、仕事も社員も増していくことになる。 | |
同年、現在の南古谷小学校(川越市)、上福岡小学校(ふじみ野市)など次々と請負、更には2020年のオリンピック会場となる霞ヶ関カンツリー倶楽部のグリーンコースの改修工事、モータープールの新設工事を請け負い、その縁あって初代徳太郎が同倶楽部支配人より推挙され、名門霞ヶ関カンツリー倶楽部の正規会員となる。まさに栄司の入社は、会社の歯車の勢いを大きく回すことになった。 |
第18回オリンピック東京大会の会場(クレー射撃場)の建設
鉄筋コンクリートの建物を初めて請け負ったのは、1957年(昭和32年)、フマキラー本舗の蕨宿舎だった。栄司はこの日のために東京から鉄筋工、型枠工を集め、社員として確保していたのである。ミキサー車のない当時、セメントも粗悪で砂砂利の配合設計も大変だったが、川越市の業界先駆者である栄司は日々努力を重ね、各方面からその信頼を広げていった。 1960年(昭和35年)、その信頼の証しは、歴史的な施設の建設に結実する。それは、日本が高度成長期に突入して最大のピークを迎える引き金となった、1964年(昭和39年)の第18回オリンピック東京大会の開催。それに向けての会場建設を請け負うことだった。当社は所沢に設置するクレー射撃場の建設を担当することになったのである。工期は絶対厳守、「世界一流の選手に満足してもらい、日本の恥をかかせない、立派なものを作り上げるのだ」と栄司は陣頭指揮を執った。当社の歴史に燦然と輝く、記念に残る工事となった。
|