第3回「二代目岩堀徳太郎」を襲名する(1965年)

初代岩堀徳太郎急逝、栄司二代目徳太郎を襲名

初代徳太郎の葬儀が行われた養寿院(川越)

東京オリンピックが始まった1964年(昭和39年)10月1日、初代徳太郎は、日高町にある比留間病院に検査入院した。所沢のオリンピック・クレー射撃場が完成し、いよいよ開幕を迎えた矢先、今まで働きづめに働いてきた64歳の体は、悲鳴を上げていた。無理は承知だった。「会社を引っ張らなくては、これからが本番なのだ。70歳まで頑張る、その後はお前にやってもらうからな」と栄司に強気の言葉を残し、病院に向かったのだ。この時栄司は35歳。自分で病院に向かう元気な初代の後ろ姿、これが最後の元気な姿になるとは思いもしなかった。

10月15日夜、もはや口もきけない状態になっていた。栄司の弟弘明(現会長)も、勤めていた鹿島建設の建設現場から駆け付けた。栄司は弘明に現実を伝えた。「親父は、明日死ぬと医師から言われた」弘明は絶句し返す言葉がない。「親父が残した会社を俺一人では背負えない。お前と一緒に岩堀を親父以上の立派な会社にしていかないか。それが俺たちの親孝行だ」突然の兄からの申し出。弘明は、「分かった。それほどまでに兄貴が考えているなら、鹿島を辞めて会社に入るよ」と即答した。

10月16日未明、初代岩堀徳太郎は急逝した。享年64歳だった。川越の岩堀家菩提寺養寿院で社葬が行われた。参列者からは口々に初代の死を惜しみ生前の人柄を称えることばはいつまでも尽きることはなかった。

1965年昭和40年1月25日、社長を継いだ栄司は二代目徳太郎を襲名した。弟弘明も、鹿島建設を円満退職し、工事主任として岩堀の現場で指揮を執ることになった。岩堀建設の軌跡第2幕がスタートする。

しかしそのスタートは順風とは言い難い、厳しき現実が突き付けられた。襲名披露の祝賀会、当時の富士銀行支店長の祝辞は、オリンピック後の建設業界の不景気を伝え、若き経営者の前途に立ちふさがる壁を指摘、突き放した言葉が記録に残っている。二代目の出発は前途多難だった。二代目徳太郎は、その壁に挑戦した。この辛口支店長にも体当たりでぶつかった。小切手の使い方、手形の切り方など、初代からは教えてはもらえなかった銀行との付き合い方を一から吸収していったのだ。それは冷ややかな世間の風当たりにも果敢に挑む、兄35歳、弟26歳の二人三脚のスタートだった。

 

伝説となった「川越市民体育館の新築工事」物語

このころ埼玉県は、第22回国民体育大会が1967年昭和42年に開催することが決定し、その施設づくりに取り掛かっていた。川越市はバレーボールと軟式野球の開催地となり1966年昭和41年の秋までには体育館を完成させることになった。ところが当時の市議会は荒れ、どこに建設するかも決まらず無駄に時が過ぎ、ようやく決着した頃には完成までにはたったの5ヶ月しか残されていない中での入札だった。誰もがしり込みした案件を弊社が受注した。当時の収入役ですら工期を心配して、二代目徳太郎に遅延賠償金を確認する始末、誰もが工期内には完成できっこないと思っていた。徳太郎は一度引き受けた仕事、何が何でもやりぬいて見せると屈せずに挑む。昼夜2交代制、職人たちが交代しても徳太郎は寝る間を惜しんで現場で指揮を執った。やがて伝説となった瞬間が襲った。それは川越に猛威を振るった台風の襲来である。建設中の体育館の屋根が飛び、岩堀建設の命運は尽きたと絶望的な有様に誰もが肩を落とした。合羽を着た徳太郎は、危険も顧みず、一晩中体育館の床に陣取り天を睨みつけていた。体育館は無事だった。この出来事は徳栄会の団結を更に強き絆へと深め、工事は進捗し見事に工期内で完成、立派な国体会場として市長、多くの市民からも称えられた。世間を驚かしたこの市民体育館新築工事は、二代目徳太郎の伝説となった。 

昭和42年埼玉国体バレーボール会場として開催された川越市民体育館(現在は庁舎駐車場)

 

 

 

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